第9回 2008年5月14日
プレゼンター:
志伯 健太郎(CMプランナー)+西田司(建築家・ONdesign)
タイトル:
<メディアパンダ -つくり方とつかい方をデザインする->
レクチャーレビュー:
<パンダの幸福論>
パンダは環境の変化に対応するため、急にササなんかを食べ始めることで生き延びてきたのだそうだ。僕にそんな芸当は到底できそうもない。常にこの凡庸な日
常を抜け出したいと思いつつも、どこかで変化を恐れ、惰性で時を過ごしている。何かを切り開き、マスを煽動する力は、このような一見奇怪とも思える、しか
し、したたかな戦略的取組みの賜物なのであり、彼らがメディアを通じたパンダを称する所以がそこにある。
もしかすると、パンダが人に寵愛されるかわいさを持つのも、戦略の一部なのだろうか。僕らが赤ん坊を見てかわいいと思うのは、彼らが、大人の人間からかわ
いいと思ってもらえなければ、生きて行けないからである。同じように、パンダがWWFのメインキャラクターに伸し上がり、ドードー(飛べない鳥)が絶滅し
てしまったのは、その見た目のかわいさゆえであったかもしれない。彼らの活動スタイルはその意味で、まさにメディアパンダであり、メディアドードーではな
い。固有性を研ぎ澄まし、環境に慣れ親しみ、利己的な繁栄を求めたりはしない。なぜか余裕綽綽に、少し斜に構えているかのように、しかし真剣に時代の最先
端を模索しているのである。そして、その活動は人々に愛くるしく響き、幸せをもたらす。
翻って、このように万人に愛されるパンダ自身は、果たして幸せなのであろうか。何に至福を感じ、何に心弾ませるのであろう。その愛おしい様相は、本心の表
出なのか、それともニヒルの果てなのか。少なくともメディアパンダの幸福論は、人を喜ばせる見返りとして存在しているようである。「人を幸福にすることが
幸福」という幸福な図式が未来の社会を変えるブレイクスルーの一つとして提示されているように思え、たいへん好感が持てるとともに、期待を抱かずにはいら
れない。彼らに悲壮感は感じられない。押し付けのプロパガンダも同情を誘う真面目さも無縁である。社会のために齷齪働いて、自分は不幸を背負っても幸福と
いうタイプのアプローチでは、社会全体への波及効果は薄いのではないかと思う。僕の幸せがあなたの幸せという共有感が社会を変え得るポテンシャルを感じさ
せるし、都市とは本来そういう可能性に満ちた場所であるべきだ。彼らの活動は、そういう都市のあるべき幸福論のメディアなのである。
中沢新一の著書に「三位一体モデル」と言うのがある。現代社会の状況を『価値が増幅する社会』として、「父=ものごとに一貫性や永続性を与える原理」
「子=例えばイエスキリスト。父と全く同じ本質を備えたコピー体で神と人間をつなぐ媒介」「聖霊=増殖するもの」の関係性(聖霊の増殖)で捉えようと試み
るモデルである。メディアパンダの3つのコンセプトをこの三位一体モデルにあてはめてみよう。「父=ソフト」ハードに価値の根源を置くのではなく、その利
用にこそ意義あるという初期設定は大いに共感が持てる。「子=記号」は父を伝播させるためのツールである。一目で分かる伝えやすいものとして「記号」はま
さに「子」に打って付けである。「聖霊=ツイスト」というのもなんとも気が利いている。増殖するのが「ツイスト」という感性である点がメディアパンダの本
質を現わしている。人々を楽しませる価値を増殖することこそ、彼らパンダの宿命なのである。中沢は著書の中で、混乱する現代の資本主義社会における価値増
殖に対して、父の不在を指摘しているが、メディアパンダにおける父は、ハードでも、もちろん国家でもなく固い意思としての「(ハード禁止の)ソフト」であ
る。これは、リオタールの言う大きな物語の喪失した現在における、新しい父のあるべき姿としてたいへん示唆的なものなのではないだろうか。メディアパンダ
のコンセプトは、現代社会の問題にも見事に呼応している。彼らの活動の果てには、世界の新しい世界の秩序が見えかくれしている。
ともかく、彼らは実践を繰り返している。大きな物語のない現代の都市において、もっとも都市を計画していると言えるのは、彼らのような最前線での戦略的ア
クションなのかもしれない。このような実践こそ実像としての都市にもっとも影響を与える都市のデザインなのだろう。明日、パンダは何を思って生きているだ
ろう。都市の幸福は風に吹かれている。パンダはそれを強く意識しなくとも、その状況を敏感に感じ取り、明日への道標を示してくれることだろう。