第02回 中島直人

第2回 2007年4月4日

プレゼンター:

中島直人(都市計画家・都市研究者/東京大学)

タイトル:

<石川栄耀論 都市味到のアーバニズムを求めて>

レクチャーレビュー:

<都市計画の果て、造園の彼方>
 「語りかける風景が好きです。」恩師のひとりである安部大就のこの言葉が、僕がランドスケープ・アーキテクチュアを学びはじめたきっかけである。あれから、かれこれ十数年。忙しい日常のなか、毎日の風景はなかなか語りかけてはくれない。
  中島さんのお話を聞いていて、ふと思い返したのはそんな事実だった。日常の風景がいかにドラマティックなものか、僕はそういうことを再認識することに重要 性を感じる。「都市計画は実際のものができることがゴールではない」と中島さんは言う。そもそも、都市への莫大な資本投下は、ものをつくることをゴールに している訳ではないはずである。しかし、今、実際に毎日を過ごす都市での日常は、人間のための都市を体感するものではなく、むしろ都市の機能維持のために 人間が存在しているがごとくである。都市とはいったい何のための存在なのか。
 石川栄耀の「盛り場」や「夜の都市計画」は、そのことに端的に応え ている。人々が集まって暮らすことで得られる楽しさがなければ、都市の存在はむしろ負荷である。彼の『都市』論は、都市計画の前提としての思考である。都 市計画という言葉さえままならない時代を通じて彼が描いた都市のあり様である。しかし、今、僕らが目の前にしているのは、都市計画においてつくられた都市 である。僕らの『都市』論は都市計画を経て形成された都市における、根源的な思想への回帰である。
 戦後の混乱から高度成長期を通じて日本の都市 が歩んできた道のその向こう側に、もう一度改めて、はっきりと見えてきたことは、都市は人々がつくり上げていくのであるという、当たり前の事実である。人 口減少の時代を向かえ、人々の生活や価値のあり方が問われている。都市は、その上に成り立っているもののはずである。
 都市計画に限らず、様々な 分野の仕事が際限なく細分化し、複雑に入り組んでおり、目の前にあるひとつの風景の生成理由が理解できなくなっている。今の日常風景が語るのは、壮大な夢 物語ではなく、嘆きや諦めにも似たつぶやきかもしれない。僕はそんな風景の語りに、知らず知らずのうちに耳を閉ざしていたのかもしれない。
 しか し、中島さんは、そんな閉塞感の漂う都市に対して、手をこまねいたりはしていない。石川栄耀という歴史に学びながら、もう一度、都市がその存在意義を語れ るように、複雑にねじれた脈略を紐解き、人々に新たな都市の構想を示されている。それは、明らかに都市計画を経た都市の思考である。都市計画による功罪を 一旦引き受け、新たな都市像を示すことである。「これは石川栄耀が考えたことか、僕が考えたことかわからない。」そう中島さんが語るとき、その思考は時空 を超えて普遍性を持つことを意味しているに違いない。
 これからの中島さんのお仕事に期待しつつ、都市の様相に耳を傾け、ささやかながらエールとなるよう歩みたい。改めて都市への希望を教えていただいた、貴重な時間であった。