2009年4月アーカイブ

下記、頂いた情報を転載します。

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出版記念企画パネルディスカッション
「建築学生51番目のハローワーク」−五十嵐太郎編『建築学生のハローワーク』と橋本憲一郎+山中新太郎編著『「まちづくり」のアイデアボックス』両書の出版を記念してそれぞれの著者同士の意見を交差させ、これからの建築プロフェッションについて考えるパネルディスカッション企画です。いま職能の「現場」はどこにあるのかを考えたい学生、ポストスチューデントの人たちへ、会社か会社以外かという二つの選択肢を越えた視野を与えてくれるスタディーズとなることでしょう。
 
■日時:4月19日 14時-17時
■場所:求道会館(東京都文京区本郷6丁目20−5)

第12回 笠置秀紀+宮口明子

第12回 2009年3月13日

 

プレゼンター:

 笠置秀紀+宮口明子(ミリメーター/mi-ri meter)

 

タイトル:

 <触れる都市計画>

 

レクチャーレビュー:

<都市教育家>

  都 市計画とはなにも、紙の上に線を引いたり色を塗り分けたりするだけの作業ではないのだと改めて知ることができました。都市での出来事を捉え、その魅力を人 々に還元するというミリメーターのお二人のスタンスは、都市計画の根源そのものと言えるかもしれません。法制度による規制や緩和の手法とは別に、普段の日 常における都市生活で、ふとしたきっかけで自分にとっての都市が変わることは良くあることです。そのきっかけは、急な豪雨だったり、たわいもない噂話だっ たり、満員電車での妄想だったり、様々でしょう。ミリメーターの仕事は、そんな潜在的な都市を見直すきっかけを鋭くあぶり出し、プロダクトとして顕在化さ せることなのではないでしょうか。

  60 年代に丹下さんが東京計画をはじめとした「見える」都市を主張し、70年代には磯崎さんが反対に「見えない」都市を主張しました。80年代には槇さんが 「見えがくれ」する都市を述べ、バブルの90年代には都市論はいよいよ混迷を極めます。そして現在、都市は都市計画家や建築家などの専門家が見せ方を決め る時代から、市民一人ひとりが自ら「見たい」都市を自由に編集し、選択できる時代になってきたのではないでしょうか。ミリメーターの作品は、そんな時代背 景に即したユーザーのための都市を具現化し、助長しているように感じられます。

  彼 らのこのような取り組みは、都市に住む人々の振舞いや思考を刺激し、洗練させ、リテラシーを育んでいくものです。都市計画の基礎として最も重要なことは、 都市の教育に他なりません。都市への理解がなければ、良い都市はあり得ません。都市の楽しさや魅力をどのように伝えることができるか。彼らの活動は、まさ に都市教育と呼ぶに相応しいものではないでしょうか。

 

<名前付ける>

  ミリメーターの作品には、どれも素敵な名前が付けられています。間取り柄の屋外シートである「MADORIX」。エスカレーターの一段をイスとして切り取った「イスカレーター」。都市の状況を現在進行形で捉えるサイト「URBANING」。

 れ もその作品の空気感を伝える的確で楽しいネーミングです。「都市の空気が読めるかどうか」と語るミリメーターの目指す都市の楽しみがそうであるように、都 市を編集して使うということはスキルやセンスを必要とします。名前を付けるというのは、その最たる例ではないでしょうか。都市で起こっている新しい状況に 名前を付けるということは、その出来事を理解し、翻訳し、編集して他者へ伝えるという作業の端緒に他なりません。彼らが付ける名前に、彼らの仕事の内容が 凝縮されているようでもあります。

 こういう感覚で都市を眺めることができれば、きっと目の前のありきたりな風景も違った様相を呈してくるのではないでしょうか。

 

<都市への眼差し>

 アー トと呼ぶに相応しい文脈において、都市を題材にすることは、むしろハンディを背負うことではないでしょうか。個人的な感性や先鋭的な記憶を揺さぶることを 目的とするアートであるならば、不特定多数への一般解よりはむしろ、個々に特化したカテゴリーを扱う方がよほど差別化しやすいのではないかと思えます。し かし、ミリメーターの関心は、アートにあるわけではなく、あくまで「都市」にあるのです。都市で起こっている出来事を人々に訴えかけるきっかとして「アー ト」を利用しているに過ぎません。彼らの熱い眼差しは今日も都市に向けられています。都市へ出て、都市を分析し、都市を表現する。彼らの作品が都市でのア クティビティとセットになって提示されていることからも、その眼差しの所在は明らかです。彼らのプロダクトを通じた都市のコミュニケーションが深化するた び、都市は私たちにとってますます身近で魅力的なものになっていくことでしょう。


第11回 高松誠治

第11回 2008年10月24日

 

プレゼンター:

 高松誠治(アーバンデザイナー・スペースシンタックス・ジャパン株式会社)

 

タイトル:

 <空間の「繋がりかた」を可視化する手法 ~スペースシンタックスの理論と実践~

 

コメント:

  都市や建築内部において、人は空間構成の特性を認知し、行動を決定します。つまり、空間構成が変われば、そこで行われる活動の種類や質が異なります。例え ば、商業施設における顧客動線は、空間構成に大きく影響されます。また、住宅地における犯罪の起こりやすさというのも空間構成と密接に関係しています。

 スペースシンタックスは、このような空間構成の特性について、非常にシンプルなグラフ理論を用いて理解しようとするアプローチです。ここ数年、多くの理論的発展と実践での活用が見られるこの手法について、ご紹介したいと思います。

 

レクチャーレビュー:

<日本のアーバンデザインにおける「道」>

"車輪をつくりましょう。30本のスポークを中心のハブに結びます。そのとき、真ん中に孔 -空の部分- をつくるのをお忘れなく。さもなければ車輪としての用を成しません。

壺をつくりましょう。粘土を使って様々な形の壺をつくることができます。そのとき、その中の空っぽの部分が、壺の本当の機能であることをお忘れなく。

部屋をつくりましょう。壁に窓を開けて、扉をつけます。部屋はどこですか?その中にある、空っぽの部分です。

空間とは、「何もない」部分です。しかし、そこで何かが起こる。それこそが機能なのです。"

(老子 道徳経・第十一章、意訳) 

-スペースシンタックス・ジャパンWEBより

 

  高松さんの人柄や雰囲気、そこに隠された強い思いが現れたすばらしい意(スペースシンタックスを介した都市空間への意)訳だと感心する。現代の日本では、 都市の機能は大きく歪められて扱われ、その真の意味を忘れ去られた都市空間のなんと多いことか。高松さんは、日本に未だ根づかないアーバンデザインの 「道」を説く、現代日本都市の老子そのものである。

 

<分析的アーバンデザインの目指すところ>

  スペースシンタックスによれば、都市空間の構成が大胆に可視化されて現れる。その情報は恣意的な操作のない純粋な都市の一つの見方である。僕は、造園(ラ ンドスケープ・アーキテクチュア)というところに立脚して都市を眺めているが、その視界あるのは歴史や文化、気候や植生など、社会や自然環境の複雑な要素 が渾然一体となった風景であり、なんとも言われず感覚的な要素を多分に含むものである。この差は、非常に大きい。

 高 松さんは、予測のモデルを易型とシュミレーション型に大分し、易の受け手本位と、シュミレーションの初期設定における恣意を指摘される。これによれば、風 景の視点は非常に易的なものであり、人間の本能的・感覚的なところへダイレクトに訴えかけるが、その受け取り方は多種多様である。一方で、これまでの都市 計画的な手法では、B/Cに代表されるように金銭的な価値に都市空間の価値を置き換えてシュミレーションするわけであるが、その方法は実に恣意的な(もう少し言えば、ベネフィットがコストを上回るという答えありきの)解析である。

  高松さんは、スペースシンタックスによる客観的な情報を使って、易的でもシュミレーション的でもない新しい方法の都市の解読を目指そうとしている。そこに は、多くの市民が本当の意味で都市空間の魅力を共有するための都市空間のリテラシーを育む条件が整えられているように感じる。専門家の恣意的な判断ででき た美しい都市は少なくはないが、今後のアーバンデザインにおける実践的展開においては、スペースシンタックスのような汎用性の高い方法論の優位が明快に感 じられるプレゼンであった。

<都市空間の価値を育む心>

  しかしながら、どのような方法を用いようとも、どんな都市を望むかは人々の思いの有り様に他ならない。高松さん自身も、出身の徳島市のような地方都市の再 生を志し、地位と名誉を投げ打ってイギリスから帰国されたのである。スペースシンタックスが、易的・シュミレーション的な手法を超えて、いかに多くの人々 にとっての都市空間への愛着や誇りを育むツールと成り得るかは、まさに今後の高松さんの活躍によるところである。

  都市空間の価値の本質を示すことと、その価値を共有し増殖させていくこと、また新しい価値を育んでいくことを人々の都市生活においてつむいでいくという作 業はなかなか容易ではなさそうである。ここに、まさに今後の日本のアーバンデザインにおける「道」があり、それを説く高松さんの使命があるのだと思う。都 市に関わる者として、少しでも同じ「道」を歩めるよう努力したいと意を新たにするすばらしい機会を頂いた。

 

第10回 古田秘馬

第10回 2008年10月9日

 

プレゼンター:

 古田秘馬(プロジェクトデザイナー)

 

タイトル:

 <プロジェクトデザイン論>

 

コメント:

 インテリアデザイン、プロダクトデザインなど、現在様々な"物"にデザインが必要なことはあたりまえになっています。

 同時に、その上位概念であるコンセプトやプロジェクト自体にもデザイン力が必要なのです。

 街づくり、空間作り、全てのものづくりは、"プロジェクト"でもあるのです。

 

レクチャーレビュー

<魅力ある人が魅力ある街をつくる>

 「若き挑戦者たち」という本が手元にある。1999 年に発行されたこの本の著者、古田さんは、当時24歳。僕がまだ世間のことなど何も分からず、大学でフラフラしている頃に、彼は、野口健に会い、長島一由 と語り、人生の意味や生きる目標のレベルをぐいぐいと引き上げていたわけである。この本を手にして、身にしみて感じるのは、そういう劣等感以上に、古田さ んの各インタビューにおける、同世代の人々への尊敬と親しみの念である。その文体には、若々しくもしっかりと確立された個性が漂っており、清々しい。この ような同世代のコミュニケーションのつながりが、彼の人生の大きな資産になっていることは間違いないと思う。そして少なからず、彼の人間としての魅力の形 成に役立っているはずである。古田さんが10年も前にやっていた試みを、たいへん遅ればせながら、僕は今頃になって、この会議を通じてやりたいと思ってい るのかも知れない。少なくとも、僕にとって古田さんと知り合えたことは、人生の大きな宝であり続けるだろう。このような同世代のネットワークを通じて、そ のムードを都市へ向けて開放していくことが、都市を楽しく、魅力的なものにすることに、少なからず役立つものではないかと、改めて心強く思った。

  古田さんの手がけるプロジェクトの魅力は、古田さんの人間としての魅力に他ならない。「街の活性化」と「魅力ある街」をつなぐのは「人」と「人のこころ」 だと話す古田さん自身の人間像と意思こそが、まさに魅力的で活力あるものだと強く感じた。彼の持つ感性や雰囲気が、そのまま都市へと拡張されているからこ そ、心から楽しく、誠実で、美味しい都市空間がそこに立ち現れているのだと思う。

 

<生活の魅力につむぐ>

  古田さんの公式に従えば、コンセプトに支えられたハードとソフトの連携こそが街の豊かさをつくるものである。ハードもソフトも既存の構成要素であることを 思うと(もちろんそのチョイスと再構築に技術はあるにしても)、コンセプトワークこそ古田さんのプロジェクトデザイナーとしての真骨頂であろう。

建 築家の青木淳は「原っぱ」と「遊園地」を比較し、「原っぱ」の自由さと「遊園地」の押し付けの楽しさにおいて、「原っぱ」の優位性を主張する。学生時代に 出会ったこの考えに僕は大きく影響を受けてきた。「ここで、こうすることが楽しいですよ」などと押し付けられる楽しさは、都市の魅力にとっては取るに足ら ない楽しみなのではないだろうか、都市とはもっと自由で、開かれていて、のびのびとした場所なのだと、そう思考しようとしてきた。

  しかし、現実にはどうだろうか?何も出来事の起こらない「原っぱ」は、やはりただの退屈な空き地に他ならないのである。いくら多目的広場や多目的ホールを 用意しても、目的がないことには多様な利用は起こりえない。古田さんの提供するプログラムは、現代社会の問題やニーズをつぶさに汲み取って、楽しく転換す るための仕掛けである。そこには決して、押し付けや白々しさが感じられない。コンセプトワークの難しさは、その意味の強靭さゆえに、いかに人々に受け入れ られるかという点にあるのだと思う。「やりたいことが先にあるわけではない」とおっしゃっていたとおり、古田さんのコンセプトが、人々を魅了し、共感を得 るのは、それが、生活やその土地のポテンシャルに素直に従っているからではないだろうか。その土地が持つ魅力を個々人の生活の魅力へつむぐという作業がコ ンセプトとして、分かりやすく人々にデリバリーされているというのが、プレゼンをお聞きして最も感銘を受けた点の一つである。関サバ・関アジのような地域 の物産品のブランディングなどではなく、街の魅力としての食文化の可能性という視点も、このような生活の発想から生まれる優れたコンセプトワークだと思 う。食べることも、オーケストラを聴くことも、優雅な朝を迎えることも、みな生活の、人生の一場面なのである。誰かのための広場や誰かのための都市ではな く、自分が楽しむための広場であり、自分の生活を豊かにするために都市がある。それが、人々の心に伝わることで、都市の何かが大きく一歩変わっていくブレ イクスルーの瞬間が見て取れる。

 

<はみ出そう!(体型の話ではありません)>

  古田さんの肩書きは、「プロジェクトデザイナー」ということになっている。彼の造語なのか市民権を得た職業なのかは定かではないが、これまでの職能の枠に 収まらない仕事であることは明白である。糸井重里は明らかに「コピーライター」の領域を超えているし、都市の分野で言えば、浅田孝の仕事は「建築家」のイ メージからは大きくはみ出すものである。僕も常々、既存の職業形態に収まらない職能を目指したいと思ってはいるが、これを成立させるのは非常に難しい。古 田さんの職能を成り立たせているのは、彼の洗練された提案と時代の需要であろうが、何より、彼自身のキャラクターがそれを成立させている大きな要因なのだ と思う。「教えられる仕事ではない」と話されたとおり、それは、まねをして学ぶ類の仕事ではないのかもしれない。しかし、時代が必要としている以上、この ような仕事は、どこかに位置づけられるはずである。願わくば、市民一人ひとりが、自らの人生や地域のデザイナーであるべきなのかも知れない。でもしばらく は、古田さんの能力に頼らざるを得なさそうである。既成概念を打ち破り、これまでの社会の成り立ちを見直すのは、なかなか簡単なことではない。人生の魅力 を引き出し、地域の魅力を引き出し、それらをつなぎ合わせて都市の魅力をつくる仕事をこれからも大いに期待しています。

 感動の多い人生はきっと楽しい。そしてそんな人生を過ごしている人々の集う都市は、もっと楽しい場になるはずである。

 できれば一度、どこかへ旅行にご一緒させて頂きたいものである。旨いものを食べ、地域の人の心に触れる旅の積み重ねが、古田さんの人生の縮図のようにも感じられる。古田さんが魅力的な人生を歩まれている限り、これからも数多くの魅力的な街が生まれていくはずである。

 

第09回 志伯健太郎+西田司

第9回 2008年5月14日

 

プレゼンター:

 志伯 健太郎(CMプランナー)+西田司(建築家・ONdesign)

 

タイトル:

 <メディアパンダ -つくり方とつかい方をデザインする->

 

レクチャーレビュー:

<パンダの幸福論>

  パンダは環境の変化に対応するため、急にササなんかを食べ始めることで生き延びてきたのだそうだ。僕にそんな芸当は到底できそうもない。常にこの凡庸な日 常を抜け出したいと思いつつも、どこかで変化を恐れ、惰性で時を過ごしている。何かを切り開き、マスを煽動する力は、このような一見奇怪とも思える、しか し、したたかな戦略的取組みの賜物なのであり、彼らがメディアを通じたパンダを称する所以がそこにある。

  もしかすると、パンダが人に寵愛されるかわいさを持つのも、戦略の一部なのだろうか。僕らが赤ん坊を見てかわいいと思うのは、彼らが、大人の人間からかわ いいと思ってもらえなければ、生きて行けないからである。同じように、パンダがWWFのメインキャラクターに伸し上がり、ドードー(飛べない鳥)が絶滅し てしまったのは、その見た目のかわいさゆえであったかもしれない。彼らの活動スタイルはその意味で、まさにメディアパンダであり、メディアドードーではな い。固有性を研ぎ澄まし、環境に慣れ親しみ、利己的な繁栄を求めたりはしない。なぜか余裕綽綽に、少し斜に構えているかのように、しかし真剣に時代の最先 端を模索しているのである。そして、その活動は人々に愛くるしく響き、幸せをもたらす。

  翻って、このように万人に愛されるパンダ自身は、果たして幸せなのであろうか。何に至福を感じ、何に心弾ませるのであろう。その愛おしい様相は、本心の表 出なのか、それともニヒルの果てなのか。少なくともメディアパンダの幸福論は、人を喜ばせる見返りとして存在しているようである。「人を幸福にすることが 幸福」という幸福な図式が未来の社会を変えるブレイクスルーの一つとして提示されているように思え、たいへん好感が持てるとともに、期待を抱かずにはいら れない。彼らに悲壮感は感じられない。押し付けのプロパガンダも同情を誘う真面目さも無縁である。社会のために齷齪働いて、自分は不幸を背負っても幸福と いうタイプのアプローチでは、社会全体への波及効果は薄いのではないかと思う。僕の幸せがあなたの幸せという共有感が社会を変え得るポテンシャルを感じさ せるし、都市とは本来そういう可能性に満ちた場所であるべきだ。彼らの活動は、そういう都市のあるべき幸福論のメディアなのである。

  中沢新一の著書に「三位一体モデル」と言うのがある。現代社会の状況を『価値が増幅する社会』として、「父=ものごとに一貫性や永続性を与える原理」 「子=例えばイエスキリスト。父と全く同じ本質を備えたコピー体で神と人間をつなぐ媒介」「聖霊=増殖するもの」の関係性(聖霊の増殖)で捉えようと試み るモデルである。メディアパンダの3つのコンセプトをこの三位一体モデルにあてはめてみよう。「父=ソフト」ハードに価値の根源を置くのではなく、その利 用にこそ意義あるという初期設定は大いに共感が持てる。「子=記号」は父を伝播させるためのツールである。一目で分かる伝えやすいものとして「記号」はま さに「子」に打って付けである。「聖霊=ツイスト」というのもなんとも気が利いている。増殖するのが「ツイスト」という感性である点がメディアパンダの本 質を現わしている。人々を楽しませる価値を増殖することこそ、彼らパンダの宿命なのである。中沢は著書の中で、混乱する現代の資本主義社会における価値増 殖に対して、父の不在を指摘しているが、メディアパンダにおける父は、ハードでも、もちろん国家でもなく固い意思としての「(ハード禁止の)ソフト」であ る。これは、リオタールの言う大きな物語の喪失した現在における、新しい父のあるべき姿としてたいへん示唆的なものなのではないだろうか。メディアパンダ のコンセプトは、現代社会の問題にも見事に呼応している。彼らの活動の果てには、世界の新しい世界の秩序が見えかくれしている。

  ともかく、彼らは実践を繰り返している。大きな物語のない現代の都市において、もっとも都市を計画していると言えるのは、彼らのような最前線での戦略的ア クションなのかもしれない。このような実践こそ実像としての都市にもっとも影響を与える都市のデザインなのだろう。明日、パンダは何を思って生きているだ ろう。都市の幸福は風に吹かれている。パンダはそれを強く意識しなくとも、その状況を敏感に感じ取り、明日への道標を示してくれることだろう。

第08回 林要次

第8回 2008年4月23日

 

プレゼンター:

 林 要次(建築家・yoji hayashi + ads)

 

タイトル:

 <ある「価値観」をめぐって...フランスから学ぶこと>

 

コメント:

 都市は、様々な価値観によって支えられて成立している。しかし、そもそも価値観を共有することは可能なのだろうか。

 都市は、お互いの価値観を「共有」するというより、むしろ「許容」して成立しているのではないか。許容度の違いは、民族や時代、それぞれの環境によって異なる。

永井荷風、中村順平を中心とした過去の先人たちの経験と個人的な体験を中心に、建築や都市における価値観の温度差を探る。

 

レクチャーレビュー:

<路傍のパンジー>

 パンジー(Viola X wittrockiana)

 スミレ科スミレ属の園芸植物。花が人間の顔に似て、深く思索にふけるかのように前に傾くところ      からフランス語の「思想」を意味する単語パンセ (pensée) にちなんでパンジーと名づけられた。

 

  もちろんパンジーは道端などには咲かない。人が手間ひまをたっぷり注いで、花壇やプランターに花を咲かせる園芸用の品種である。林さんの姿勢は、まさに思 想に象徴されるパンジーそのもののようであるが、誰の手塩にも染まっていないし、花壇やプランターといった限られたフィールドに囚われている様子もない。 如雨露から注がれる水を避け、ぬくぬくした肥料を飛び出し、どこかの道端で、何かを発見し、深く考え、自ら行動する。大衆の一部としてではなく、アウト ローや迷い牛ならではの「美しさ」がそこにはある。照れているのか、見通しているのか、その熱く冷たい瞳の奥に、か細いようで強いその花の存在を感じる。

  林さんの掲げたテーマのとおり、都市の再考とは、都市に対する価値観の再考に他ならない。何の疑いもなく当たり前だと感じている共通認識を疑い、その原初 まで立ち返り、どんな時代の何がそうさせていたのかを知ることで、はじめて都市の成り立ちの一部を理解できたと言うことになるのだろう。情報のグローバル 化やスピード化などと言われる時代において、すっぽり抜け落ちてしまった、本当に大切な情報の源を見つめ直す作業こそ、都市の再考という哲学に必要な行為 だ。

  さらに、都市を思考するには、あらゆる立場から同じ物事を照射してみることも有効だ。なぜ、あの人はあの時ああ考えなければならなかったのか。誰の思考に も必ず理由があるはずである。このような根源的な視座こそ、現在の都市の成り立ちを解明し、新しい価値を見出すブレイクスルーへの最善の方法なのかもしれ ない。

 林さんの話には都市を再考してみることの意味とその方法のヒントがたくさん隠されていたように思う。

  人前で話すのが苦手と何度も繰り返す林さんの、しかし、そのスペクタクルのようなプレゼンを僕はいったいどう理解すれば良かったのだろう。一連のお話の根 源にあったのは、果たしてニヒリズムだったのか、それともオプティミズムと受け取るべきだったのか。僕の拙い感受性では、その花のそこはかとない美しさの ほんの一面しか感じ取ることができなかったように思う。

  ともあれ、松田くんが林さんを「先生」と呼ぶことは腑に落ちた。彼は、誰の教師でもない代わりに、万人のための哲学者なのである。彼の教えを請うために、 僕たちは何も求めてはいけない。傍からそっと、その思想の過程を、ありのままを見守ることしかできないのである。路傍に咲くパンジーの美しさは、それがそ こにあるという、その原初的な状況においてのみ最大限に高められているのだから。

第07回 藤村龍至+山崎泰寛

第7回 2008年2月28日

 

プレゼンター:

 藤村 龍至(建築家・藤村龍至建築設計事務所)+山崎泰寛(編集者・建築ジャーナル)

 

タイトル:

 <議論の場を設計する>

 

レクチャーレビュー:

<コラボレーションの可能性>

  結局のところ、二人がどのようなコラボレーションの相乗効果を発揮しているのかよくわからない。二人の話す言葉は、すれ違うとも、噛み合うとも言いがた く、ねじれて、もつれながら、なんとなく方向性を示し出す。確固たる結論を二人で導くわけでもなく、ディベートが繰り広げられるわけでもない。

まがいなりにも、公的な場であることがそうさせたのかもしれない。二人がこのようなプレゼンの場に同席するのは、これがはじめてだったと言う。そして、これが最後かもしれないとも。round about journalのブログが、それぞれの日常を語るだけで、互いにコメントし合うことはないというスタイルだったのとも等しいコミュニケーション深度のよう に思えて興味深い。いつもは、もっと違う顔でガツガツやっているのかも知れないけれど、公的なプレゼンの方法として、二人はこのような様相を選択している ようである。

  もしかしたら、このような距離感が現在の都市における最適なコミュニケーションのあり方を示しているのかもしれない。だからこそ二人の表現はこうなってい るのだろうか。決してコミュニケーションが希薄なわけではなく、一方で協同体のような強い絆を感じさせるわけでもない。時々、連絡を取り合うくらいだが、 会えばお互いに刺激しあう。そしてまた、それぞれの日常を過ごしていく。それくらいの親密度が僕らの世代のコミュニケーションなのかもしれない。(個人的 には、僕はもう少し強いコミュニケーションを望んでいますが。。。)

  正直なところ、僕はこのようなパートナーの存在を羨ましいと思ったのだと思う。よくはわからないけれども、明らかに魅力的なその関係性を理解し、共有した いと思ったのだ。その根底には深い信頼関係が感じられる。二人のそれは、「学校」を通じて得られたものだというのも象徴的で、面白い。都市は人間同士のコ ミュニケーションによる、生きた学びの場そのものである。二人が議論を通じて社会に投げかけるのは、都市を学ぶ姿勢にほかならない。現代の都市を生き、よ り深くコミットメントするためのコラボレーションが成立しているのである。

 

<建築サークルを鍛える>

 僕は少しround about journalのことを誤解していたようである。建築サークルという仲良しグループの趣味的・遊戯的活動のように理解していた面がある。建築についての議 論というハードな筋トレを繰り返す団体を少し、引いた視点から眺めていたのも事実である。(このこと自体はそれほど間違った見方ではないと思うのだけれ ど、)

し かし、彼らの議論が向かう先は、自己満足的な団結の強化にあるわけでは決してない。建築サークルの強化合宿は、サークル内の技能のレベルアップに終始する のではなく、その目標は体外試合というコミュニケーションを通じた社会改善なのだと知らされた。これは、かなり手ごわいサークルである。誘われてもいない けれど、もしも勧誘されたら、こんなハードなサークルに入るべきか否か、少し身構えて考えてしまう。それは、憧れとハードルの高さが醸し出す見えない敷居 のせいである。二人の話を聞いて、このサークルに対する考え方が大きく変わった。都市で活動するサークルとして、このようなスタンスは節足ではなく、本質 を突いている。筋トレのための筋トレなんてやってもしょうがないとタカをくくっていたが、これはもう、うかうかしていられない。ランドスケープサークルも トレーニングしてるんでしょ?なんて聞かれてしまったが、もう、夜もうかうか寝られないくらいである。

 

<政治とポップ>

  彼らの目標である都市を変えていく活動のためには、どのような方法であれ、社会性が必要となる。建築を変えることで都市を変えることは不可能ではない。し かし、どのような建築であれ、そのインパクトが社会に届き、人々に伝わらなければ、都市は変わってはいかない。二人の取り組む活動のその先には、このよう な社会性が巧みに設定されている。このような社会性を意識したうえで、70年代生まれの僕たちに今できることに着 手し、都市を変えるためには、政治」をも意識しながら、社会にアピールするためのスキルを磨いているのである。その目標設定はニクイほどはっきりしてい る。2010年以降は、建築と言う枠にとどまることなく、より開放的に社会へアピールしていくのだという。社会へ打って出るものをつくるために、あえて 今、ハードコアな議論によって、表現すべき素材を研ぎ澄ましているのである。このような地固めの中から、人々に共有される社会性が芽生えつつある変遷の過 程が肌身に感じられる。ブログからフリーペーパー、イベントへという過程においても、その変化の歩みは明らかである。今後、大きく成長していく彼らの取り 組みから目が離せない。そして、近い将来ポピュラリティを獲得し、その先には政治をも射程に捉えていくのである。

 

<メディアと地方>

 そのために、今、二人の触手はメディアと地方へ伸びている。2010年以降の展開に向けて、彼らの戦略はすでにはじまっている。小さなサークル活動が大きなムーブメントへジャンプする瞬間に向けて、その舞台設定は緻密な計画で積み上げられつつある。

メディアを通じた地方票の獲得と言う一見旧体制的なそのアプローチこそが、現在の都市を変えていく一番可能性を秘めた方法なのだと言う。このような取り組みの成果として、地方都市の再生が(少なくともそのムードが)大都市へ伝播する未来もそう遠くはないかもしれない。

このようなアプローチを提示することで、彼らは、都市に関わる建築家の可能性を模索している。都市と関係を持つことの風土を建築界に根付かせようとしているのである。

 

<建築家と言う仕事・編集者という仕事>

結 局のところ、二人の職業すらもよく分からない。建築家と編集者という枠組みからは明らかにはみ出た、彼らの活躍の領域が、現代の都市の社会性をそのまま表 しているようである。しかし、言い換えれば、彼らのこのような取り組みこそが、現代の建築家や編集者の核心的な仕事と呼べるのかもしれない。彼らには明ら かな信念がある。都市を思考し、都市を変えようとしている。建築やメディアの領域を行ったり来たりしながら、建築やメディアが都市を変える力を最大限高め るための取り組みこそ、彼らの設計する議論の場の持つ意味なのである。

 僕にはこのような取り組みの全てが、建築の政治性や社会性を拡張する取り組みだという実感は、正直なところ今はまだない。大規模なイベントを成功させた後の、現在企画中の次号やその次の号での彼らの展開が待ち遠しくてたまらない。そして、さらに20年後の彼らの都市を大きく変える活躍に期待せずにはおられない。

 日本の都市の新しいフェーズを切り開く瞬間、ぜひ僕も同じフィールドに立っていたいと思う。


第06回 阿部大輔

第6回 2007年11月28日


プレゼンター:

 阿部 大輔(都市計画家・政策研究大学院大学)

タイトル:

 <「都市再生」再考:市街地の多孔質化と公共空間>

コメント:

 「都市再生」が謳われて久しい。しかし、大都市で展開されている大規模再開発は、新たな商業スポットを生み出しただけで、都市性の向上には貢献し ていないのではないだろうか。そこで「都市が再生する」ための条件を、欧州における都市再生のモデルとされるバルセロナを事例に考える。

レクチャーレビュー:

<Learning from Barcelona バルセロナから学ぶこと>
 ヴェンチューリがラスベガスから学ぶように、阿部さんはバ ルセロナから学ぶ。商業主義に支配されたラスベガスの建築と行政主導のパブリックスペース再編によるバルセロナの都市計画。両者の対象には差があるが、阿 部さんもヴェンチューリも、決して現状の表層的な断面を切り取って都市を分析するのではなく、その現象の歴史的・社会的背景を深く読み取り考察する。都市 から学ぶべき本質は、奥の深いものなのだと改めて認識させられる。
 阿部さんのバルセロナの解剖ぶりをお聞きしていて、デザインイメージ先行の都市再生に沸くバルセロナの雰囲気とは大きく異なる、ポストモダンならぬポスト都市再生ともよべる分析が印象的だった。

<都市空間の「アヒル」と「装飾された小屋」>
 ヴェンチューリはラスベガスの建築を「アヒル」と「装飾された小屋」に二分し、後者をポス トモダンのブレイクスルーと考えた。バルセロナの都市計画にこの分析を応用するなら、「アヒル」は商業空間における公的な空間づくり。形態は多様で空間的 なバリエーションは豊富だが、そこでのアクティビティは単調で商業主義に毒された公共空間。一方、「装飾された小屋」は、公共空間とカフェや市場などのア クティビティがマッチングされたスペース。空間性の特質よりはむしろ、多様なアクティビティをどんどん付加することによって魅力が増す公共空間づくり。と 言うような対比ができるかもしれない。
阿部さんは、商業空間によって生み出されるモールかされた公的空間を緊張感のない退屈なスペース(=アヒル)だと指摘し、行政によるアクティビティのきっかけづくり(=装飾)が初期の公共空間のマネジメントには重要だと言う。

<都市空間での感性を取り戻す>
 2歳半になる息子とまちを歩くと普段とは違った感覚で都市を体験することができる。それは、信号という単 純なルールのみが車と歩行者の接触をさけているという当たり前の事実や、通りすがりのおばさんの表情が醸し出す親近感、くわえタバコの青年とすれ違うとき の警戒心など、都市で他者(や車)と接触するということがいかに多様な感性を潜在させているかということである。僕たちはいつの間にかこのような感覚を鈍 化させ、当然のルールと思い込みながら生活をしている。そこに漂う雰囲気は、安心感というよりはむしろ、感性の鈍化による無関心が現れているのだと思う。
 阿部さんが指摘するように、都市に適度な緊張感が存在することが、本来感じていたはずの高密な都市生活における感性を取り戻し、他者とのコミュニケーションの様々な可能性を再帰するかもしれない。

<「継続的なプロセスとしての都市の発展」>
 市民が都市に対する意識を敏感にするだけで、都市は大いに変わりえる可能性を秘めている。し かし、そう思っている市民は皆無だろうし、そう思わせるための手立ても少なそうである。そのために重要なのは、消費されつくされない空間とそこでのアク ティビティのマッチングであろう。幸福な都市の生活像を描くことができ、それを支える場所が確保されていれば、市民の意識も変わってくるはずである。消費 空間で消費させられていては発展は望めないし、ましてや消費させられているとは思っていない幸福感に満ちているようではなおさらである。市民が自らのこと として都市を考え、都市に参加していくことを可能にする仕組が求められている。もしかすると、これは制度ではなくムードの問題なのかもしれない。市民に対 する正しい情報の提供と望めば変わるということの小さくても目に見える事象の積み重ねが都市を大きく変えていく。不断の教育的な取り組みやできることから 変化させていくという姿勢がユルバニスムの語源たる「継続的なプロセスとしての都市の発展」を可能にするのだと教えていただいた。
 このようなこ とを扇動する専門家を名乗るためには、自らがどれだけ都市で豊かな時間を過ごすことができているかが問われるようにいつも思う。阿部さんは、バルセロナで 様々な豊かな時間を過ごされてきたのではないだろうか。今後は日本で、ぜひ幸福な都市のアクティビティを体感する機会にご一緒させていただければと思う。 また阿部さんは、専門家の政治への参加も必要だと指摘する。くしくもご自身が所属される政策研究大学院大学において都市計画はマイナーな存在だと話されて いたが、ぜひとも都市計画を政策の中枢に据えて、市民による都市の自治として政治がなされる社会が実現されるよう、阿部さんの都市政治家としての働きかけ にも期待をしたい。

第05回 山崎亮

第5回 2007年9月13日


プレゼンター:

 山崎 亮(ランドスケープアーキテクト・studio-L)

タイトル:

 <逆都市化時代のランドスケープデザイン -『つくる』から『つかう 』へ->

コメント:

 人口減少、生産年齢人口の減少、税収の低下、行政財源の縮小。「つくる」時代の終焉がみえてきました。これからは、つくってきたものをどう「つかう」のかが問われる時代です。公共空間を使いこなすプロジェクトを紹介します。

レクチャーレビュー:

<昔話の世界観>
 作家・江国香織は最高の物語として「昔話」をあげる。「むかしむかし・・・」と、はじまったとたんに安心して全てを委ね られる世界がはじまるから、と。山崎さんのつくり出そうとしている「つかい方」はそんな世界観へのチャレンジかもしれない。お説教なら聞きたくないけど、 昔話なら聞いてみたい。心地よく、全てを一旦忘れて、物語の世界に酔いしれる時間。現代の人々が求めているのは、そんな物語なのかもしれない。

<与える喜びが都市を変える>
 しかしながら、いつまでも昔話を聞いているわけにもいかない。子供の頃は、絵本を読んでもらわないと眠れな かったが、いつの頃からか一人で眠れるようになった。いつまでも与えられているばかりでは成長がない。山崎さんのプログラムには、巧妙に世代交代が仕込ま れている。物語を読んでもらっていた人がいつの間にか物語を読んで聞かせる側に回っている。そして、なにより重要なのは、読んでもらっていたときよりも、 読んで聞かせる側に回ったときの方が、よりいっそう幸福感が増しているということである。与えることが楽しくなる。そんな価値観を持てる人がたくさん暮ら す都市は、必ずや楽しい都市に違いない。

<何もない不自由よりは、補助線つきの自由>
 与えすぎることは、不自由でもある。情報過多に育てられた子供は、本当の自由が何であるかを 知らない。何もない時間や空間が自由なのか、数多の選択肢から選ぶことができる状況が自由なのか、もしくは、何も思考しないくてよい状態が自由なのだろう か。それぞれに魅力的なところはたくさんある。忙しい日常から開放されて、ボーっと過ごす休暇は心地いいし、自分の興味にあわせて何時でもどこでもどんな ことでもできる可能性に満ちた都心での生活も楽しい。一方で、至れり尽くせりだって悪くない。高級ホテルで貴族のように過ごしてみたいと思う気持ちに嘘は つけない。では、都市の公共空間では、どれを狙いに行くべきか。山崎さんの狙い目は、特定の出来事に関する至れり尽くせり、あたりだろうか。「本当に原っ ぱで楽しめるか」とはまさにその通り。このあたりの加減はすごく難しいところだと思う。

<パブリックを問う>
 特に、公共空間に関して言えば、公共が何をなすべきかという問題が大きく関与する。いやその前に、そもそも公共とは 何かということが先だろうか。公共空間のもともとの存在意義は、私(もしくは個)が共有して持つ空間ということにある。今でも入会地などを持つコミュニ ティも存在するが、公共が持っている空間=公共空間では、そもそもないはずである。そのはじめのボタンを掛違えているから、公共空間が迷惑施設になったり 苦情の対象になったり、使えない空間になってしまったりするのである。税金というシステムが自分と公共空間との関わりを分かりにくくしている。しかし、公 共空間は明らかに私の(ための)空間なのである。公共は、そのためのサポートをする組織である。一人の資産では持てない庭を公共を通じて公園として「私 は」持っているのである。という事実を知らしめるのは、(ねじれているけれど)公共の大事な仕事である。予算を死守するのが仕事ではない。市民に公共空間 での自由を与えるのが大事な仕事なのである。

<「都市教育」の重要性>
 というようなことを小学校や中学校で教わった記憶は全くない。都市は自分たちの生活の舞台である。最も重要な学 習のフィールドであるべき場所について、十分な教育がなされているとは思えない。自由の獲得は、教育的な要素を多分に帯びている。このような基礎的な素養 を幼い頃から身に付けておくことは非常に大切なことだと思う。(山崎さんのプログラムでも子供を対称にしたものが多かったように思う。)

<出来事をつくる→幸福な都市生活の提示>
 山崎さんの取り組みは、「出来事をつくる」ということのように思う。以前、「空間から状況へ」 という企画があったが、「状況」から更に一歩踏み込んだ「出来事」の生成の実践。都市空間で起こる様々な可能性の一端を掘り起こし、楽しい「出来事」とし て、それを提供する。参加者がそこで得られる満足は、空間や状況を含めた都市で起こりうる楽しみのひとつであり、押し付けや傲慢さや教育的な視点は感じら れない。この出来事によって、都市での生活は明らかに以前より楽しいものになっている。莫大な資産を投じて、都市を再生しなくても、人々の生活は豊かに なっている。願わくば、これをもう一歩踏み込み、与えられた時間と場所に限定されない、社会的な都市生活の提示へと発展して行ってもらいたい。出来事の積 み重ねが生活だろうか?確かに、それも大切な刺激ではあるが、価値観の転換のためには、公共空間全体と都市生活全体の関係性の変革の取り組みも重要だと思 う。進士先生曰くのソーシャルプランナーとしてのランドスケープアーキテクトとしての面目躍如である。僕もそのような視点に踏み込んでみたい。

第04回 松田達

第4回 2007年7月13日


プレゼンター:

 松田 達(建築家・松田達建築設計事務所)

タイトル:

 <相対的な新しさと絶対的な新しさ:建築的都市的発明の誕生>

コメント:
 新しさを二つに分ける。相対的な新しさと絶対的な新しさ。前者は古いものとの対比で生まれる新しさ。モード。後者は比較するも のがない新しさ。だから、誕生したときに気付きにくい。都市と建築をめぐる、いくつかの「絶対的な新しさ」の誕生に遡及して迫る。物事はいつ生まれるの か。新しさの根源を、イルデフォンソ・セルダ、ル・コルビュジエ、レム・コールハースを軸にして考える。

レクチャーレビュー:
 "時を告げる予言者になるな 時計をつくる設計者になれ"
 ジェームズ・C・コリンズ/ジェリー・I・ポラス著『ビジョナリーカンパニー』より

 そもそも、どちらかになれという選択肢そのものが不毛なのかもしれない。松田くんの言うとおり、これまでにない学際的領域を形成することこそ、今、僕らに求められているのかもしれない。
  セルダ-コルブ-コールハースの時系列で都市の捉え方をみれば、全体性の提示(発見)-部分的機能からの全体-部分と全体の同時性というのが思考の流れの ように思う。コールハースの示している新しい概念は、すでに世界化されたものの再発見でしかない。部分の積み重ねによって行き着く先が都市(=夢)なので はなく、個別の部分のリアリティこそが都市なのだという夢の否定に思える。
では、ポストコールハースとはいかなる思考か。僕はやや単純に全体性の 再提示(再発見)ではないかと考える。資本主義や消費社会を背景にした個別部分の自由主義の果てに、豊かな都市の地平が広がっているという認識には、いま ひとつ共感が持てない。離散的な活動の自由が保証されていることに魅力は感じるが、そこに秩序がない限り、無限の荒野が広がっている状況に過ぎないのでは ないか。議論でもあったように、その秩序とは新しい「政治」かもしれないし、「思想(イズム)」や「アクティビティ」かもしれない。EUでは「国家」が問 われているし、「人種」や「宗教」は世界のあちらこちらで揺らいでいる。
 これらは、建築家の仕事ではないかもしれない。また、世界はコントロー ルされる対象ではないかもしれない。では、僕らは何を求めて、何のための生きようとするのだろうか。個別に細分化された世界で最大限の快楽を求めるのか。 閉塞感を紛らわすための更なる細分化を進めるのか。
松田くんの提示する何かと何かをつなげる行為は、まさに細分化された世界をつなぎとめるきっかけとなる。これは、すでに世界化しているものを分節していくことよりも、はるかに困難な作業である。
時代の潮流を予測し市民を煽動するだけの預言者でも、未来の指標となる時計の設計者でもなく、価値観とシステムを統合した新しい思考と実空間を提示するユルバニストたる松田くんの活躍に期待せずにはおられない。

第03回 岩嵜博論

第3回 2007年5月8日

プレゼンター:

  岩嵜博論(コンサルタント、研究員/博報堂ブランドデザイン、博報堂イノベーションラボ)

タイトル:

 <デザイン・アートとビジネス・マーケティングの間で>

レクチャーレビュー:

<アーバン・イノベーション・コンサルタント(都市を創る人)>
 都市は誰のためにあるのだろうか。毎日、満員電車で何時間も通勤をしてい ると、都市のために人間が生活をしているようにさえ思えてしまう。都市とは明らかに人間が創り出したものである。しかしその壮大な存在は、人間の手によっ てコントロール可能な位置を超え、独自のシステムとして僕らの生活を取り巻いている。特に消費社会の構造は、人間の欲望を構造として示し、マーケットの動 向は人間が創り出しているというよりも、都市総体としての意思をさえ感じさせる。今、都市のモラルは市場に委ねられている。
 このような都市にお いては、公共空間さえ、もはやその意義を失いつつある。人間の社会的な活動を支えるための場であったはずの空間は、市場に呑み込まれつつある。丸の内仲通 りの整備はまさにその一例かもしれない。レム・コールハースは「プライベートがパブリックを補いつつある」として、"ショッピング"のリサーチから都市の あり様を捕らえ、新しい建築のコンテキストとしている。
果たして、都市とはそのようなものだろうか。確かにそのような解読は可能であろう。しか し、それだけが現代都市(もしくは資本主義社会の先進都市)を捕らえる絶対的尺度だろうか。同時代の都市に関わる人間として、コールハースの存在は圧倒的 であるが、彼の手法の向こう側に、これからの新しい都市像が描けるだろうか。誤解を恐れずに言うならば、都市はもっと公共的で精錬で高貴な存在であり、物 語やヒューマニティに溢れた場であるべきではないだろうか。そのように都市の解読をするやり方のほうが僕らの生活をより豊かにする可能性を多く秘めている のではないだろうか。
 岩嵜さんの指摘する経験経済をよりどころとするような「新しい価値創出」とは、まさに現在支配的な都市の論理を超えた行為 だと思う。都市を、人間の欲望を、物質ではなく出来事として捕らえる。消費ではなく循環として考える。面白いのは、既にある都市で新しい価値創出を行う点 にある。まったく新しい価値をゼロから生み出すことは、先進国が途上国へ乗り込んでいく傍若無人な態度においては容易なことかもしれない。これに対して 「つくることからつかうことへのシフト」や「なにげないものの顕在化」は、今あるものをどのように捕らえるかという視点から、今あるものを変えようとして いる点で興味深い。
 岩嵜さんは、世界をメタな視点から捕らえ、右脳と左脳を行ったり来たりしながら、新しい価値を創り出そうとしている。岩嵜さ んの目線は「デザイン・アート」も「ビジネス・マーケティング」も(もちろんその間も)、これまでの枠組みからはみ出すものを捕らえている。その上で、そ のような価値を操る経営者にはなりたくないと言う。プレーヤーとしてではなく、それを支えるコンサルタントを望む。自らがある意思を持ってひとつの価値を 扱うのではなく、客観的な分析や既存の論理をつなぐことからいくつもの価値を創り出そうとしている。既存の経営者に、市場に、価値に、そして都市に、新し い視界を与える「教育者」のような態度である。それは、本当の意味で新しい都市を創る行為かもしれない。

第02回 中島直人

第2回 2007年4月4日

プレゼンター:

中島直人(都市計画家・都市研究者/東京大学)

タイトル:

<石川栄耀論 都市味到のアーバニズムを求めて>

レクチャーレビュー:

<都市計画の果て、造園の彼方>
 「語りかける風景が好きです。」恩師のひとりである安部大就のこの言葉が、僕がランドスケープ・アーキテクチュアを学びはじめたきっかけである。あれから、かれこれ十数年。忙しい日常のなか、毎日の風景はなかなか語りかけてはくれない。
  中島さんのお話を聞いていて、ふと思い返したのはそんな事実だった。日常の風景がいかにドラマティックなものか、僕はそういうことを再認識することに重要 性を感じる。「都市計画は実際のものができることがゴールではない」と中島さんは言う。そもそも、都市への莫大な資本投下は、ものをつくることをゴールに している訳ではないはずである。しかし、今、実際に毎日を過ごす都市での日常は、人間のための都市を体感するものではなく、むしろ都市の機能維持のために 人間が存在しているがごとくである。都市とはいったい何のための存在なのか。
 石川栄耀の「盛り場」や「夜の都市計画」は、そのことに端的に応え ている。人々が集まって暮らすことで得られる楽しさがなければ、都市の存在はむしろ負荷である。彼の『都市』論は、都市計画の前提としての思考である。都 市計画という言葉さえままならない時代を通じて彼が描いた都市のあり様である。しかし、今、僕らが目の前にしているのは、都市計画においてつくられた都市 である。僕らの『都市』論は都市計画を経て形成された都市における、根源的な思想への回帰である。
 戦後の混乱から高度成長期を通じて日本の都市 が歩んできた道のその向こう側に、もう一度改めて、はっきりと見えてきたことは、都市は人々がつくり上げていくのであるという、当たり前の事実である。人 口減少の時代を向かえ、人々の生活や価値のあり方が問われている。都市は、その上に成り立っているもののはずである。
 都市計画に限らず、様々な 分野の仕事が際限なく細分化し、複雑に入り組んでおり、目の前にあるひとつの風景の生成理由が理解できなくなっている。今の日常風景が語るのは、壮大な夢 物語ではなく、嘆きや諦めにも似たつぶやきかもしれない。僕はそんな風景の語りに、知らず知らずのうちに耳を閉ざしていたのかもしれない。
 しか し、中島さんは、そんな閉塞感の漂う都市に対して、手をこまねいたりはしていない。石川栄耀という歴史に学びながら、もう一度、都市がその存在意義を語れ るように、複雑にねじれた脈略を紐解き、人々に新たな都市の構想を示されている。それは、明らかに都市計画を経た都市の思考である。都市計画による功罪を 一旦引き受け、新たな都市像を示すことである。「これは石川栄耀が考えたことか、僕が考えたことかわからない。」そう中島さんが語るとき、その思考は時空 を超えて普遍性を持つことを意味しているに違いない。
 これからの中島さんのお仕事に期待しつつ、都市の様相に耳を傾け、ささやかながらエールとなるよう歩みたい。改めて都市への希望を教えていただいた、貴重な時間であった。

第01回 池田雪絵

第1回 2007年1月16日

プレゼンター:

 池田雪絵(建築家・池田雪絵建築設計事務所)

タイトル:

 <見えないものを見るために>

レクチャーレビュー:

<都市の鍼灸法からマッサージ・アロマテラピーへ>
 池田さんが建築をつくるモチベーションは至極わかりやすい。「人々を気持ちよくするた め」に、そのささやかな場が提供されている。「ささやかな」はひょっとすると失礼な表現かもしれない。今後はもっと、大きなサイトや巨大な公共建築を手が けられていくだろう。しかし、今のところその「モチベーション」と「ささやかさ」が、すばらしくマッチングしている。どの作品を拝見しても、そこに共通し ている雰囲気は、僕らを圧すのでは、やさしくなでる。さらに言うと、直接的な干渉というよりも、何かで包み込むといった感覚を与えるものだった。対象の大 きさが変化しても、その質は不変であってもらいたい。
僕らの目の前には、すでに都市の風景が広がっている。戦後の焼け野原が原風景ではないし、バ ブル崩壊後の都心の空き地を荒野とみなすのにも無理がある。僕らは生まれたときから、都市を前提として生きてきた。それは、切り開らき、勝ち取られる対象 ではなく、むしろ選択し、自由にカスタマイズしながら使いこなす対象としてある。都市をつくるのはおこがましいが、自分の好きな居場所を獲得するのは当然 の姿勢だと感じる。そんな同時代的な感覚を強く感じた。

<見えないものを見る・感じないものを感じる>
 池田さんの作品は、人の感情に投げかけるものが多い。その意味でアートと建築のあいだを行ったり来たりする。アートは人の感情を揺さぶることにその存在意義があるだろうが、建築は日々の生活での感情の持ち方を変えるためのものといえるかもしれない。
  都市に暮らす人々は、多くの情報と空間を編集することで、普段の生活を組み立てている。それは、いっけんすごく多様な経験を生むようであるが、多すぎる選 択肢は組み合わせの単調さを誘発し、平凡な日々を繰り返すことがちゃちな(本質的ではない)安心につながっている面も否めない。そこで本来見ているはずの 風景や感じているはずの雰囲気を大衆の共有イメージにもまれながら、(うすうす気にとめながらも)足早に通り過ぎるのである。そんな状況に変化を与え、そ こにあるべきものに目を向けることが、日々の生活を豊かにする池田さんの眼差しは、根源的なアチテュードとして大いに共感できるものであった。そのプロ デュースのために必要なのは、万能な神の目ではなく、偉大なる市民性の拡張であろう。僕らは都市に生まれ、都市に生きていくのである。現在の都市で、「普 通」に生きるということはひどく難しい行為なのかもしれない。

<世界は変わる>
 しかし、彼女の都市治療は今日もどこかで、ささやかに続いている。世界はパラダイムシフトを求めてはいない。今ある世界は十分に豊かで気持ち良く、楽しい経験を生成することが可能な場なのである。そんなことを改めて気づかせてもらった心地よいレクチャーであった。

コンタクト

都市再考会議事務局への連絡は、こちらの連絡先にお願いいたします。

都市再考会議事務局
info@toshi-saiko.org

メンバープロフィール

■幹事:
 
池田雪絵(建築家/池田雪絵建築設計事務所) 
1973年宮城県生まれ。東京大学建築学科卒業、ヘルシンキ工科大学(Finland) 交換留学、東京大学大学院修士課程の後、坂茂建築設計、東京芸術大学非常勤講師、studio Archi Farm を経て2006年池田雪絵建築設計事務所設立

中島直人(都市計画家・都市研究者/東京大学)
1976 年東京生まれ。1999年東京大学工学部都市工学科卒業。2001年同大学院修士課程修了。現在、東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻助教。博士(工学)。都市計画史や都市デザイン論の分野での研究を進めつつ、地域主導のまちづくりを支援する活動を展開。近著に『都市美運動シヴィックアートの都市計画史』(東京大学出版会、2009年)、『都市計画家石川栄耀 都市探求の軌跡』(共著、鹿島出版会、2009年)。
個人HP:http://ud.t.utokyo.ac.jp/members/m99/naoto/naoto.html

岩嵜博論(コンサルタント、研究員/博報堂ブランドデザイン、博報堂イノベーションラボ)
1976年生まれ。博報堂マーケティングセンターにて国内外のマーケティング戦略に従事した後、博報堂ブランドデザインに参加。ブランド戦略の立案からデザインディレクションまで、左脳領域と右脳領域を横断するコンサルティング活動に従事。2008年からは博報堂イノベーション・ラボ研究員を兼務。イノベーションに関する研究活動からクライアントへのサービス提供まで幅広く行っている。

松田達(建築家/松田達建築設計事務所)
1975年生まれ。建築家。京都造形芸術大学、桑沢デザイン研究所非常勤講師。UIA東京大会フォーラム・ジャパン部会委員。隈研吾建築都市設計事務所を経て、文化庁派遣芸術家在外研修員としてパリにて研修後、パリ第12大学パリ・ユルバニスム研究所にてDEA取得。2007年松田達建築設計事務所設立。作品=《第一回リスボン建築トリエンナーレ帰国展会場構成》ほか。建築系ラジオCAAK共同主宰。

山崎亮(ランドスケープアーキテクト/studio-L)
1973 年愛知県生まれ。公共空間のデザインに携わるとともに、完成した公共空間を使いこなすためのプログラムデザインやプロジェクトマネジメントに携わる。現在進行中のプロジェクトは、泉佐野丘陵緑地パークマネジメント(大阪府泉佐野市)、木津川右岸運動公園パークマネジメント(京都府城陽市)、震災+デザインプロジェクト(神戸・福岡・東京)、海士町総合振興計画(島根県海士町)、いえしま地域まちづくり(兵庫県姫路市)、みのお森町まちづくり(大阪府箕面市)、水都大阪2009サポーターマネジメント(大阪府大阪市)、穂積製材所プロジェクト(三重県伊賀市)など。京都造形芸術大学、京都市立芸術大学、近畿大学、大阪工業大学、武庫川女子大学、大阪工業技術専門学校にて非常勤講師。(財)ひょうご震災記念21世紀研究機構にて中山間地域の課題について研究中。東京大学大学院にてオープンスペースのマネジメントについて研究中。雑誌『OSOTO』副編集長。NPO法人パブリックスタイル研究所副理事長。共著書に、『マゾヒスティックランドスケープ(学芸出版社)』『都市環境デザインの仕事(学芸出版社)』『地域創造へのアプローチ(IBCコーポレーション)』などがある。

阿部大輔(都市計画家/東京大学都市持続再生研究センター)
1975年米国ハワイ州生まれ。早稲田大学理工学部土木工学科卒業、東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻修士課程修了、同博士課程修了。2003~2006 年カタルーニャ工科大学バルセロナ建築高等研究院(ETSAB)博士課程に留学(この間、スペイン政府給費奨学生)。博士論文提出資格(DEA)取得。博士(工学)。専攻は都市計画・都市デザイン。政策研究大学院大学研究助手を経て2009年より東京大学都市持続再生研究センター特任助教。博士論文「スペインの歴史的市街地における保全再生戦略」により、2006年度日本都市計画学会論文奨励賞ならびに日本不動産学会湯浅賞(研究奨励賞)を受賞。

藤村龍至(建築家/藤村龍至建築設計事務所)
1976年東京都生まれ。2000年東京工業大学卒業。2002年東京工業大学大学院修了。2002年-2003年ベルラーヘ・インスティテュート(オランダ)在籍。2008年東京工業大学大学院博士課程単位取得退学。ISSHO建築設計事務所共同主宰を経て、2005年藤村龍至建築設計事務所設立。2002年よりウェブサイトroundabout journal共同主宰。2007年よりフリーペーパーROUNDABOUT JOURNAL発行。2008年よりイベントLIVE ROUNDABOUT JOUNRAL開催。現在、東京理科大学、首都大学東京、日本女子大学非常勤講師。

山崎泰寛(編集者/建築ジャーナル)
1975年生まれ、島根県出身。横浜国立大学教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科、京都大学大学院教育学研究科修了(教育社会学講座)。保健室、学校建築、子ども用家具を研究。SferaExhibition/Archive(京都・祇園)にて書店、ギャラリーの企画運営に携わり、現職。2002年より、藤村龍至と、「都市にインタビューする」をテーマにかかげるサイト「roundabout journal」を共同主宰。

林要次(建築家/yoji hayashi + ads)



志伯健太郎(CMプランナー)



西田司(建築家/オンデザイン)
1976年神奈川生まれ。横浜国立大学卒業後、東京都立大学大学院助手を経て、2004年オンデザインパートナーズ設立。裏路地のプロジェクトから住宅設計まで、都市空間の生活デザインを研究実践。2006年よりCMプランナー志伯健太郎と「メディアパンダ」を結成。映像、家具、アロマなど日常の知覚のデザインを展開。 映画監督行定勲氏と脚本から設計した「ムシェット夏のスタジオ」で2008年グッドデザイン賞、他受賞多数。著書に「ロジホン」「ONDESIGN PRINT」共著に「Re-city」http://www.ondesign.co.jp

古田秘馬(プロジェクト・デザイナー/umari)
慶応大学中退。 99年に様々なジャンルの若手を描いたノンフィクション作品「若き挑戦者たち」を出版。その後、雑誌ポカラのプロデューサーを務める。 2000年と米、NYにてコンサルティング会社を設立。2002年より東京に拠点を戻す。現在は、山梨県・八ヶ岳南麓の『日本一の朝プロジェクト』、東京・丸の内の『朝EXPO in Marunouchi』、北海道での地域映画プロジェクト、歌舞伎のブランディング、農水省の食料自給率アップのプランニング、経産省の地域人材育成プログラム、環境省のプロジェクトなど、色々な分野のプロジェクトの基本コンセプトを設計して、プランニングをしていくプロデュース業を行う。音楽面においては佐藤允彦氏、板橋文夫氏にピアノを師事。映画やCM音楽を手がけるほか、現在は日本の聖地をテーマにした写真とのコラボレーションプロジェクトを「primal gravity」を発表。

主なプロジェクト:
■会社WEBサイト 
www.umari.jp
■日本一の朝プロジェクト
www.asa-pro.net
■朝EXPO in Marunouchi
www.asaexpo.net
■SoulSwitch Project
www.soulswitch-m.jp
■歌舞伎美人プロジェクト
www.kabuki-bito.jp

高松誠治(アーバンデザイナー/スペースシンタックス・ジャパン)
1972 年徳島市生まれ。東大院修了、ロンドン大バートレット院修了。2002-2006年、英Space Syntax社に勤務。ロンドンElephant & Castle再開発など主要プロジェクトにおいて、人の動線から見た空間構成検討を担当。2006年に帰国後、スペースシンタックス・ジャパン株式会社を設立。日本における分析的なアーバンデザイン検討の定着に向けて悪戦苦闘中。

笠置秀紀(mi-ri meter)
宮口明子(mi-ri meter)

mi-ri meter/2000年、宮口明子、笠置秀紀によって設立。ともに1998年、日本大学芸術学部美術学科修了。武蔵野美術大学、武蔵野大学非常勤講師。アーバンピクニックシリーズなど都市と関わるプロジェクトを多数発表。建築、インテリア、プロダクト、アートディレクションなど幅広く活動。ミクロな視点と横断的な戦術で都市を内側からデザインするプロジェクトを実践している。

川尻大輔(編集者/鹿島出版会)



■事務局:

武田重昭(ランドスケープ・プランナー/兵庫県立人と自然の博物館)
1975 年神戸市生まれ。2000年大阪府立大学大学院終了。2007年より同博士後期課程(緑地環境科学専攻)在籍。2001年都市基盤整備公団(2004年独立行政法人都市再生機構に改組)入社。設計部、住宅経営部、都市環境企画室、都市住宅技術研究所などを経て、2009年4月より現職にて屋外空間のマネジメントについての研究や環境・コミュニティのプロデュースに携わる。共著に「シビックプライド都市のコミュニケーションをデザインする」(2008年、宣伝会議)。技術士建設部門(都市及び地方計画)。NPO法人パブリックスタイル研究所副理事長。
 

これまでの都市再考会議

第1回 2007年1月16日
プレゼンター: 池田 雪絵(建築家/池田雪絵建築設計事務所)
第2回 2007年4月4日
プレゼンター:中島 直人(都市計画家・都市研究者/東京大学)
第3回 2007年5月8日
プレゼンター:岩嵜 博論(コンサルタント、研究員/博報堂ブランドデザイン、博報堂イノベーションラボ)
第4回 2007年7月13日
プレゼンター:松田 達(建築家/松田達建築設計事務所)
第5回 2007年9月13日
プレゼンター:山崎 亮(ランドスケープアーキテクト/studio-L)
第6回 2007年11月28日
プレゼンター:阿部 大輔(都市計画家/東京大学都市持続再生研究センター)
第7回 2008年2月28日
プレゼンター:藤村 龍至(建築家/藤村龍至建築設計事務所)+山崎 泰寛(編集者/建築ジャーナル)
第8回 2008年4月23日
プレゼンター:林 要次(建築家/yoji hayashi + ads)
第9回 2008年5月14日
プレゼンター:志伯 健太郎(CMプランナー)+西田 司(建築家/ONdesign)
第10回 2008年10月9日
プレゼンター:古田 秘馬(プロジェクト・デザイナー/umari)
第11回 2008年10月24日
プレゼンター:高松 誠治(アーバンデザイナー/スペースシンタックス・ジャパン)              
第12回 2009年3月13日
プレゼンター:笠置 秀紀+宮口 明子(ミリメーター/mi-ri meter)

都市再考会議とは?

都市再考会議は、都市計画家、アーバンデザイナー、建築家、ランドスケープアーキテクト、マーケティングプランナー、編集者などの都市に関わる様々な分野の若手の実務者や研究者らによる会議である。
毎回、各分野の最先端で活躍するゲストを招き、現代の都市が持つ課題やポテンシャルについてのディスカッションを通じて、これまでとは異なる新たな都市へのアプローチを模索している。     様々な意識や立場を持つ人々が、都市について自由に語り、考え、行動するためのネットワークが拡大しつつある。

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